このクソみたいな人生のなかで、せめて「死なない」という選択ができた理由
つい先日、「死にたい」という友人の話を聞いた。
僕は普通の人よりもこういった話を聞くことが多いと思う。
その友人がどれぐらいツラいか、それはきっと本人にしか分からない。もしかしたら、「死」という選択を取ることのほうが、目の前の現実のなかで生きていくことよりも、せめて心が安らぐのかもしれない。
だから、僕は、死を選ぼうとしている人に「絶対に死んじゃいけない」なんて言葉を使うことはない。誤解を恐れずに言うのなら、死にたいという人にたいして僕ができることは、せめて僕の素直な気持ちを伝えることだけだと思っている。だから、その友人に、こう伝えた。
「僕は、あなたが死んだらメッチャ悲しい。」
もしかしたら、この言葉が「僕に迷惑をかけたくない」とか余計な気遣いをさせてしまうかもしれない。だけど、僕としても自分の気持ちを伝えておかないときっと後悔してしまうから、死を選ぼうとしているのが友人の自由なように、僕の気持ちを伝えるまでは僕の自由で良いのかな、と思う。
もちろん、「あなたが死んだらメッチャ悲しい。」なんて言葉は、言葉だけでは意味がない。言葉に心がこもっているかどうかなんて、受け取り側からすれば簡単に分かってしまう。人はきっと、言葉ではなく、言葉の奥にある心でコミュニケーションをするのだと思う。
だから僕は、その友人をはじめ誰かの相談を受けるときには、「ココトモのゾノと相談者として」だけでなく「人と人として」関わる気持ちでいる。義務としてでなく、自分の意思で相談にのる。相談員としてでなく、一人の人間として、もっと言えば、僕の中では、友達として、相談にのる。
その友人と話していくなかで、僕自身が「死にたい」と感じていた頃のことを思い出した。
このクソみたいな人生のなかで、せめて「死なない」という選択ができた理由
たった4年前。
僕はうつ病の真っ最中だった。
当時の僕は、自分に1つも自信を持てなかった。
「自分に自信がない」とか「自分のことが嫌い」ということが、今生きることをこれほどまでに苦しくするのかと、痛いほどに味わったと思う。余談だけど、だからこそ「死にたい」という人にたいして「生きたほうが良い」なんて言葉を使わないのかもしれない。
頑張りたいことを何1つ頑張れない、大切にしたい人すらも大切にできない、築いてきたものはほぼすべて失った。毎日毎日、自分の不安定な感情に振り回されて、未来には不安しか感じなかった。
「自分も、自分の人生も、全部クソだ。」
生きていることが何度も嫌になった。
実際に、死を選択しようとしたこともあった。死ぬのは怖いけれど、生きていくのも同じぐらい怖かった。
だけど僕は、このクソみたいな人生のなかで、死を選ばなかった。
僕が死を選ばなかった理由は、抗うつ剤でもないし、カウンセラーでもないし、自分が頑張れたことでもない。僕が死を選ばなかった理由は、親友がくれた愛情だった。
人を救うものは、愛情なんだと思う
親友は、僕が不安定な感情に振り回されているときに、いつも寄り添ってくれた。僕が悲しいときには一緒に泣いてくれて、僕に少しでも嬉しいことがあったときには僕以上に喜んでくれた。
だから、死にたいと思うときは、いつも、その親友の顔が浮かんだ。そして、そのたびにいつも、この世界に繋ぎとめてもらった。そのときには気づかなかったけれど、僕は、その親友に、居場所をもらったんだと思う。
居場所とは、自分に愛情をくれる存在のこと。僕はそう思う。
たしかに、自分に自信をつけるにも、自分を好きになるにも、最終的には「自分の行動」が必要かもしれない。だけど、そんなことはすべて気持ちが休まったあとに考えられることであって、「死にたい」と感じている人が「死なない」という選択を取るためには、何よりもまず最初に愛情が必要なんだと思う。少なくとも、僕はそうだった。
それから、僕は、ココトモを作って今に至る。
別に、「この世から一人でも自殺者を減らしたい」とか「うつ病患者の多い日本をどうにかしたい」とか、そんな大義名分は無い。ただ、僕やココトモメンバーに勇気を出して心を開いて「こんなクソみたいな人生ならいっそ死んでしまいたい」と打ち明けてくれる人がいたなら、自分があのときもらった愛情を、今度は自分が渡す側になれたらいいなぁと思う。